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母との思い出(続き)

こんにちは。KETO-BAKE®︎です。

アルツハイマー型認知症の母との思い出を前回書きましたが、長くなったので記事を分けました。

続きです。

目次

台風の日の出来事

母が週3回、それまでの半日型のデイサービスから1日型の別の施設のデイサービスに変わってから、わたしは時間を多くとれるようになったので、その間に家事や買い物を済ませたり、高齢者施設の見学に回ったりしていました。
それでもちょっと疲れが出てきていました。

ある日、台風で雨風がこれから強まる、という日があり、
ベランダに置いていた物干し竿などを室内に入れて窓の近くに置いていました。

それを見つけた母は、それをまたベランダに戻そうとするのです。
これから天気が悪くなるから、中に入れているんだよと言っても、
ああ、そうなの と言って、また外に出そうとします。
そのやりとりが何回も続き、私もストレスが溜まっていたのでしょうか、
つい母に強く言ってしまったのです。

言っても言っても覚えられない母
母が悪いわけではないのはわかっているのに、どうしたらいいのか分からず・・・
反省しました。
自分の愚かさ、人間力の低さ、心の狭さに・・・

わたし自身、猛反省しても今でも心の傷として残っていますが、もっと長い期間、介護をされているご家族様の心情は相当なものだと・・・。
そして介護職をしている人も、本当に大変なお仕事をなさっているんだなと、改めて尊敬いたしました。

このことは辛い思い出ですが、母との一つの出来事として、わたしの中で大きく刻まれています・・・

味覚の変化

その頃から施設に入るまでの間、四六時中母から目が離せない状態が続き、わたしがいない時はヘルパーさんにお願いしたりと、人や時間のやりくりが大変な時期でした。

食事に関しても、随分と変化が見て取れました。
認知機能が落ち始めの頃は、まだ普通に食事ができていました。
お箸も使えるし、お行儀よく美味しいと言いながら食べていました。
でも徐々に、味覚の変化が現れ出しました。
コーヒーを苦くてまずい、と言うようになりました。コーヒーが好きで毎日飲んでいたのに。
カレーもあまり美味しくなさそうでした。
ただし、甘いものは美味しいといっていたので、
喫茶店では甘いカフェオレにしたり、家では甘い煮物(特に
かぼちゃの煮物)を好んで食べたのでよく作りました。

この時の私に、リコード法の知識があれば・・・ココナッツオイルで調理したりしたのになぁと、今は悔しく思います。

温かい眼差し

食べ方にも変化が現れ、お箸は使えるのですが、料理で遊ぶようになりました。
外食先で、小鉢に入った料理をお箸でグリグリ潰したり。まるで子供が砂遊びをしているかのような。
喫茶店に行っても、カップを口元に運ぶのではなく、添えてある小さなスプーンでちびちび飲んだり。
周りに座っているお客さんや店員さんからは、なんとも言えない表情を浮かべられるようになりました。


ある日、よく行くうどん屋さんで、わたしがお会計の時にお釣りを手のひらにギュッと握手するかのように握って渡してくれて、
「ありがとうございました」と言いながら、わたしの目を見て何か言いたそうに力強くも優しい眼差しを送ってくださったことがあり、今でも心に残っています。
その視線は、”介護頑張ってね”と言ってくれているかのようで、とても励まされたのを覚えています。
見ず知らずの方達ですが、もしかするとスーパーやよく行くお店など、地域全体で
さりげなくわたしたち親子を見守ってくださっていたのかもしれないな、とそう感じられた瞬間でした。

家での様子

トイレに関しては母自身で行えたので、これに関しては大変助かりました。
が、トイレットペーパーを使った形跡がないような気がして・・・
実家のトイレには温水洗浄便座が付いてるのですが、それを使っているような音はするので、洗っているのだと思うのですが、ズボンのお尻のあたりが濡れている時があったので、もしかするとトレイットペーパーを使うことを忘れていたのかもしれません。
それでも、なんとか自力でできていたので、こちらとしては助かりました。

食事やトイレ以外の家での様子は、施設に入る直前の頃には、ソファーにダラーっと横になってテレビを観る、という時間がずっと続きました。
母は元々、ソファーには座らずテーブルのある椅子に腰掛け、きちんと座ってテレビを観る人だったのに、
ソファーにぐったり横たわって、近くに置いてある仏壇に向かって、父や祖父に話しかけたり。
その時言っていた、「私はもう半分あっちに行ってるからー」の一言が衝撃的でびっくりしたのを覚えています。
何かで読んだか聞いたか定かではないのですが、認知症の人は第六感的なものがよく働くようになる、と。
それを思い出し、思考よりも感覚や勘が冴えてくるのかなぁ、亡くなった人と交信できたり?、直感的にこの人良い人とか悪い人とか、そういうこともわかってくるのかな?と、母の様子を見ていて感じたことがあります。

わたしの理解の範囲を超えた、想像もできないことが、母の頭の中で起こっているのだろうと、そう思うしかありませんでした。

母は、自分がもうすぐ記憶することができなくなることをわかっていたのか、施設に入る前の年の大晦日の紅白歌合戦を「録画しておこうよ!」と仕切りに言っていたのです。
毎年一緒に観ているのに、一回もそんなことを言ったことはありませんでした。
まるで自分の脳に焼き付けておきたい、そんな風に感じ取れました。

結局、施設選びは難航し、なかなか決まらず随分時間が経ってしまいました。結局母が無事に入居できたのは、数ヶ月経った秋のはじめ頃になっていました。


いろんな出来事を重ねた数年間を経て、母はたった一人で必死に自分自身と戦いながら
頑張って生活していた一人暮らしの生活を終えた
のでした。

わたしが高齢者選びで経験したことや感じたことは、別の記事に記載しましたのでよろしければそちらもご覧ください。

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