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母という人

こんにちは。KETO-BAKE®︎です。

アルツハイマー型認知症になり数年、要介護1→3→5と、現在グループホームで暮らす元気な母の、これまでどんな人生を送ってきたのか、わたしが母から聞いてきたことや、母という一人の人間、女性が、どんなふうに感じて生きてきたのか、その人生が認知症発症とどのような関係があるのか、わたしなりに思うことなど書いていきたいと思います。

目次

兄弟たちに可愛がられて育った母

母は昭和15年、大阪のそこそこ大きな農家の家で育ちました。
物心ついた頃には父親は戦争に行っていて、顔を知らないままの幼少期で、
6人兄弟の末っ子として育ちました。
十ほど離れた姉以外はみな男兄弟で、お兄ちゃんたちに可愛がってもらって育ったようです。

若い頃は、高校卒業後祖母の推めで”手に職をつけなさい”と、洋裁学校へ進学。
卒業後は、穀物関係の会社に勤めました。
当時まだまだ女性が会社勤務するのは珍しい時代、女性社員もとても少なかったようです。
男性社会の中、お兄ちゃんたちに囲まれて育った母はおそらく社内でも可愛がってもらえたのでしょうか、10年近く勤めたようです。

結婚という転機

そして、同じ会社に勤めていたわたしの父と出会って結婚。
父との結婚については多くを語らず、「職場結婚です」と、仕切りに恋愛結婚ではないと強調していました。
(実際のところはよくわかりません)
照れというよりも、母は父との結婚は実家のため、祖母やお兄ちゃんたちのため、のようなことを言っていました。

30歳近くになっても結婚していなかった母は、家族たちから心配されていたようです。
早く嫁に行かないと貰い手がなくなる、と。
当時、30歳でまだ結婚してないというのは多くなかったようで、世間的にも恥ずかしいといった人の目があった時代。

そこへ突然、家に会社の他部署の男性がやって来て、お付き合いさせて下さいと挨拶に来たそうです。
びっくりしたそうですが、祖母もお兄ちゃんたちも、もらってくれる人がいるなら・・・と前向きに思ったそうです。

祖母たちは、その男性がどんな家に住んでいるのかこっそり見に行ったりして、嫁ぎ先のチェックをしたそうです。
時代だなぁ〜と、母から聞いていて感じました。

家持ち長男。嫁ぎ先には父親(わたしからは祖父)、妹や弟が同居。庭付き一戸建て。
当時は家を持っている男性に嫁ぐのは好条件とされていたようなので、祖母や兄弟は母に結婚することを勧めたそうです。

そうしてお付き合いするようになったのですが、仕事帰りに純喫茶でお茶をする、といった当時のハイカラなデートを重ね、しばらくして母は、結局家族が喜んでくれるならと家族のために結婚した・・・そのようなことを言ってました。(真意はわかりません)
それで「恋愛結婚じゃないです、職場結婚です!」とやたら言っていたのかもしれません。(頑なに認めようとしない母)

そうして、二人の結婚スタートは、新幹線で九州へ新婚旅行に旅立つ様子をテレビ中継されたりしたそうで、華々しいものだったようです。

知らない土地へ

当時はまだ、”嫁入り道具”を積んだトラックが走っている時代。
タンスや家電類を人様にお披露目する(見せびらかす??)ような、一式積んだものが見えるように、嫁ぎ先に運び入れている世の中。
白物家電のある家庭がまだ珍しかった当時、紅白のトラックに積まれた母の嫁入り道具には、テレビや洗濯機、冷蔵庫があったのも自慢の一つだったと思います。
祖母が奮発してくれたと言っていました。
嫁ぐ娘に恥をかかせられない、と。

大阪の南のほうから北へと嫁ぐことになったことを、ご近所さんたちからは、遠くへ嫁ぐんだね、と言われたそうです。

遠く知らない土地へ嫁入り道具と一緒に嫁ぐことになった母は、新品の家具や家電に囲まれて、慣れない家事をやっていくことになりました。

父の家族

父のほうの家族は6人家族。父の父親(祖父)、妹、弟3人、そして長男の父。祖母に当たる父の母親は、母が嫁ぐ数ヶ月前に亡くなったそうです。
(父と母は、その亡くなった祖母の葬儀に参列したのがきっかけで、父と知り合うことになったのですから、縁とはわかりませんね。)

そのうち、次男と三男の弟たちは結婚していたため、一緒には住んでいませんでした。

結婚当初は、父の父親(わたしの祖父)、妹、四男の弟、そして父と母の5人で暮らすことになりましたが、それからしばらくして、四男が結婚し一緒に住むことになったので、合計6人の大人たちの生活だったようです。

新居は、一応新婚さんということで、家族は気を遣って2階の部屋を父と母の新婚生活に空けてくれました。

いざ結婚生活が始まると・・・

嫁ぐまでの母は、ほとんど家事をしていなかったと母本人は言っていました。
もちろん基本のことはできましたが、普段のお料理などは祖母に任せていたみたいです。
お正月の時にお煮しめだけは母が作ったりしたそうですが、収穫の時期に実家の農業の手伝いをしたりするくらいだったようです。

嫁ぎ先での生活は、母が家事全般を引き受けることになりました。
その当時は、嫁いできた者が家事を全部やるのは自然なこと、の時代でした。

家のことは父の妹をはじめ、母が嫁ぐまで同居していた次男夫婦の妻が色々と教えてくれ、引継ぎをしたそうです。
その後は母がほぼ一人で大人6人分の食事や掃除、洗濯をすることになりました。

料理が舞う

ある時、家族で食卓を囲み食事をとっていたところ、父がいきなり激怒し、
こんなまずい飯が食えるか!
とちゃぶ台(時代を感じますね)をひっくり返し、作った料理が飛んたそうです。
母はその当時のことを、
”料理がまずいと言われたこともショックだったけど、何より、兄弟たち家族のみんなの前でそんなふうに怒鳴られたことが悔しかった”と振り返っていました。

母はそれまで、優しいお兄ちゃんたちに囲まれて育った経験から、
基本、男性に対して「優しい」という印象をずっと持っていたようです。
それが、嫁いだ先の家で夫に、みんなの前で怒鳴られる、というのが屈辱的だったのでしょう、惨めだったとも言っていました。

それだけ聞くと、父はとても感情的で怖いひどい人、というふうに感じますが、おそらく父としては、
”兄弟たちにおいしいものを食べさせてやりたい”という、兄気心だったのだと思います。
嫁である姉さんに文句が言えない弟と妹に代わって言った、という気持ちだったんだと思います。もっと料理の腕をあげてほしかったとも思います。
(今だから父の気持ちがわかりますが、幼少期に母から聞かされた時は父の気持ちが全く理解できませんでした)

感情表現が苦手な父を、母は理解するのが難しくただただ悔しく傷ついたのだと思います。

しかしこのことはまだ序章にすぎず、その後の結婚生活を占うような出来事となりました。

悔しい思いをした母は、人に聞いたり本をみたりして料理を少しずつ勉強していきました。

後にこの時の事を、その食卓を一緒に囲んでいた叔父や叔母から
「あれは姉さんちょっとかわいそうだったね」
と言っていたので、相当だったんだと思います。

母のそんな様子を見てきたからでしょうか、何年経っても母のことを
「姉さん」と慕ってくれている叔父や叔母は、母のことを認めてくれているんだなと感じます。

長くなりそうなので、続きはまた。

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