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母という人(続き)

こんにちは。KETO-BAKE®︎です。

アルツハイマー型認知症で現在グループホームに入居中の母の性格や、これまでの生活において積み重なって経験してきたことが、認知症に大きく関わっているかもしれない・・・と思い、続きを書きました。

目次

父の意外な一面

母は結婚した翌年に、長女である私を出産し、子守をしながら相変わらず家事に日々追われていました。
自由奔放でいきなり大声で怒鳴り出す父は、家族の中でも母にはとりわけ大声をあげていたようです。
母のストレスは相当だったと思いますが、そんな中でも救いだったのは、父が子供好きだったことです。

父は、昭和ひと桁生まれ。その時代の男性は赤ん坊の世話をする人は少なかったのではないでしょうか。
私のおしめを嫌がらずに換えてくれたそうです。
まだ布のおむつの時代、赤ちゃんの私をニコニコしながらあやす父の写真が残っていました。

しかし毎日ではありません。人付き合いが良かった父は、毎日遅い帰り。出張も多かったです。
母のバタバタは止むことがなく、どんどんストレスは溜まる一方でした。

母本来の性格の封印

母は、結婚前までは朗らかで明るく良く笑う性格だったようですが、私が物心つく頃には、母の笑い声はほとんど聞いた覚えがありません。笑顔の多い人ですがそんな性格だったと後から聞いて驚いたくらいです。

3つ違いの妹が生まれてからは、私は父と二人でお出かけすることが多くなりました。
父は幼児である私にも構わずに大きな声をあげる人でした。
まだ幼稚園にすら通えない年齢の娘に、大きな声で怒ったり怒鳴ったり。
私は幼少期早々に父のことが嫌いになっていました。
この世で一番、人として嫌だ!と思う人がどうして自分の親なんだ!
そんなふうに強く思っていました。
父のことを子供の頃は理解できませんでした。

その父に連れられて行く会社の人たちとの集いや親戚の家、競馬が趣味の父は毎週馬券を買いに場外馬券場(当時はタバコの吸い殻やハズレ馬券が床にいっぱい捨ててあった頃です)に一緒に行ったりするのがあまりいい気分ではありませんでした。
すぐに怒鳴る人は嫌い、幼な子の私はそういうふうに思っていましたから。
母にもすぐに怒鳴る、小さな子供からすると恐怖でしかありません。
でも母は赤ちゃんの妹をおぶって、祖父の世話もしなければならず、私は父と出かけるのが嫌だと強く言えなかったのです。
いつも渋々行っていたのを覚えています。

その頃の母は、優しいけれど笑顔はなく疲れている印象でした。

良き理解者の祖父

私が幼稚園へ通いだした4歳の頃に、祖父が自宅で亡くなりました。
祖父は父とは違って穏やかな人で、母のことも父のもとに嫁いできてくれたことに感謝していたようです。最初はどんな女性が家に入ってきたのか様子を見ていたようですが、家事などの仕事ぶりを見て、通帳などの管理を任せるようになったようです。
出張や人付き合いなどで帰りの遅い父の代わりに、夕食後の団欒はほぼ祖父と過ごしていたようです。
「おじいちゃんとの毎日だったからおじいちゃんと結婚したみたいやったわ」とよく言っていました。
母は、自分の父親という存在を知らないまま過ごしてきたので、お父さんってこういう感じなのかなって思ったと振り返っていました。

たくさん可愛がってもらっていただけに、毎日を共に過ごす祖父の自宅での死は相当ショックだったようです。
母にとっては嫁ぎ先での良き理解者であり、話し相手であり、最大の味方を失った・・・喪失感は半端なく、寂しかったに違いありません。

内職はゴルフ代に

祖父を亡くしてからは、私たち子供の子育てと家事、そして家で内職をしていました。
最初は、子供用の靴下に刺繍をする針仕事。図案を広げながら、白い可愛い小さな靴下にたくさんの色の糸を使って細かな作業を行なっていくもので、納品に一緒について行ったのを覚えています。
その次に傘の骨組みを組み立てる内職でした。毎日、茶の間で軍手をはめてやっていた母の姿を思い出します。その横でよく国語の教科書の本読みをさせられたのを覚えています。

毎日何年も続けていたその内職で稼いだお金を、父はゴルフに行くからお金くれ、と言ってあっさり持っていく、母は着る物も我慢していたのに・・・そんな光景を見ていたからでしょうか、私はますます父に対して嫌な気持ちが募っていきました。
人付き合いのいい父だから仕方がないのだろうなと、大人になった今ならそう思えますが、当時の子供だった私にはわかりませんでした。

多趣味な母から教わったこと

私が小学校高学年になった頃、母は前からやってみたかったテニスを始めます。その頃は内職以外にパートにも出ていて忙しいのに、やってみたかったことに挑戦するのは、母の本来の明るい性格が現れているのだろうなと思います。

やってみようと思ったテニスは、その後クラブチームを変え、軟式から硬式へと移り30年以上続けることになるのです。
やってみたい!楽しい!そう思ったことは挑戦するべきだ、継続できるのだ、と母の在り方をみて教わりました。

他にも、文化系の趣味も多くやっていました。絵画教室やステンドグラス、絵手紙など。洋裁学校出身でしたから、私や妹がまだ小さい頃は、夏休みの旅行のためにお揃いのワンピースを作ってくれたりもしました。

多趣味で器用、仕事も趣味も家事も子育ても全部やる、休みなく毎日働き続けるそんな母は、私たちにはいつも優しく接してくれていました。

威圧というストレス

そんな母がよく言っていたのが「お父さんに怒られないようにしないと」と、父がすぐに怒鳴るのでちゃんとやらなくちゃ、と常に神経質にしていたことです。
これは子供である私にも影響がありました。
常に大人の顔色を伺う、大人に怒られないためにどうやって生活していくか、そのことだけで毎日頭がいっぱいで、将来何になりたいとか夢とかそういうことを描けないで育ちました。
時代もあったと思います。親だけでなく、学校の先生、習い事の先生、塾の先生、威圧感のある大人が多かった、それがある意味当たり前の時代でした。

威圧というストレスは、きっと母には毎日積み重なって大きな爆弾となったに違いありません。
母だけでなく、おそらくこの時代の主婦の人たちは自己犠牲でストレスを溜めたまま高齢期になられている方がたくさんいらっしゃるのではないかと思っています。
女性蔑視や差別が多かった世の中で、悔しい思いをした人たちのストレスは、もしかすると今、認知症という形で現れているのかもしれない、女性に認知症が多いのはこういったことも大なり小なり関係しているかもしれないなと、勝手ながら思ったのでした。

こうして我慢をして耐えて悔しい思いをして頑張って生きてきた人間の晩年が、自分が自分でいられなくなる、自由が奪われる、そんな世の中ではあまりにも悲しすぎると、そう思いました。

もちろん、ストレスだけではないと思います。生活習慣食生活性格遺伝子リスク時代背景教育など、いろんな原因が考えられますから一概に言えないのですが・・・
ストレスも原因から外せない大きなものではないかと、母を見てきて感じています。

仕方がないこと、なのかもしれません。
どうすることもできない、のかもしれません。
でもこれからの未来は変えることができる、
どんな人も皆さん頑張って生きている。
その頑張って生きてきたみんな一人一人が、いろんなものから解放され、ようやく自分自身のために楽しむ人生を思う存分過ごせるような、そんな高齢期を送れる社会になればと、思い描いています。

高齢者だけの特権。ご褒美。高齢者にならないと入れないテーマパーク、とか・・・
そんな楽しみがあれば、もっと健康でいようと思える人も増えるかもしれない、なんて思いました。

未来が明るいものになることを祈っています。


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